愛の授業から学んだこと
こんにちは。
私は毎週火曜日は心理学の授業を3コマ持っていて、今日も授業を受けてきました。
いつも通り教室に入ると授業が始まったのですが、今日のテーマは「愛とは何か」ということでした。
授業が始まるとまずひとりひとり先生に当てられて、「愛を一言で例えるなら?」と聞かれました。
いきなりとんでもない問題だな、なんて思っていたのですが、クラスのみんなはすぐに答えていきました。
「愛は約束だ」とか「愛とは時々面倒だ」などひとりひとりが個性的な意見を持っていました。
その後先生が心理学的側面から解説を加えていくのですが、いつもの授業と生徒の食いつき方が全く違いました。
いつもは授業中に私語が多く携帯電話の使用が目立っているのですが、今日はほぼそれがありませんでした。
むしろ積極的に授業に参加していました。先生の問いかけに答えたり、愛に関する持論を述べたりとそれはそれは大変活発な授業でした。
「愛とは二人で学びあうものだ」とか、「恥ずかしさも愛の一部だ」
などと生徒はかなり積極的に授業に参加していました。
それを聞いている私は正直なところ変な気持ちでした。顔が赤くなるというかなんというか…。とにかくそういう話を聞いている間は何か違和感を感じていました。
というのも私自身にそういう話を学校のような公に開かれた場所で声高に話した経験が一度もないからです。
日本の学校で心理学の授業があって「愛とは何か」と生徒に先生が訪ねたとしても、おそらく今日の授業のように活発な議論は交わされないと思います。
少なくとも「愛とは二人で学びあうレッスンのようなものだ」などと声を張り上げて言う人はいないでしょう。
少なくとも私には無理です。なぜかというと恥ずかしいからです。クラスメイトや周りの目線を考えればそんなことは絶対に言いません。
ですが今日の授業ではそういうことを普通に言う人がいました。それはどうしてなのでしょうか。
私はそれは「コスタリカ人がとても正直だから」だと思います。8ヶ月過ごしてきましたがこれはいつも思うことです。
思ったことや自分の意見がある時はためらわずに言うことができるというのはコスタリカ人の大きな特徴です。
好きなことは好きと言い、嫌いなことは嫌いと言います。それがいくらわがままな主張であろうとも必ず口にします。
以前テスト前日に宿題が出た時、「テスト前日は勉強しないといけないからその宿題はやれない」
などとクラスメイトが言い出したことがありました。
日本ではありえないような主張でしたが、コスタリカではそれが通用したようです。
また日常生活の中で、「愛してる」だとか、「好き」だとかいう表現がかなり使われます。
恋人同士でもそうなのですが、家族や友人の間でも非常に多く使われることです。
親が息子を見送る時、友達と別れる時、抱き合ったりキスをしたりして挨拶をします。それは彼らにとっては愛情表現だそうです。
私はそのように思っていてもなかなか言葉にするのは難しいです。そのような言葉を親や友達に伝えようとしてもどうしても恥ずかしいような気持ちになってしまいます。
つまり心から正直になれていないような気がするのです。心では思っていてもそれが表に出てきません。
それは私だけではなく、多くの日本人に当てはまるのではないかと思います。
思ったことを言えず、正直になれず苦い思いをしたことが私には色んな場面でありました。
正直になれないとこのように損をすることもあるでしょうが、正直になることが必ずしも良いこととは限らないでしょう。
正直に全てを口にしたら人間関係に影響を与えるかもしれません。それが結局不幸を招くかもしれません。
ですがこの正直さというのが、少なくとも私とコスタリカ人の間にある大きな違いだと感じています。
今日は以上です。
ありがとうございました。